本日は朝から当ステーション利用予定となっている利用者さんの調整含めて、居宅事業所回りと事務作業。スタッフ一同もくもくと作業をしておりました。午後は風が強い中、病院や居宅の事業所にご挨拶に伺いました。以前からお世話になっていた方々にもお時間とって頂き、本当に感謝を実感した一日でした。ありがとうございました。
夕方は海老名スタッフのいしかわまゆこが勉強に来てくれました。先月から視覚的な問題が大きい患者さんに悩んでいましたので、少々難しいかと思いましたがアフォーダンスを一緒に勉強することにしています。
佐々木先生の著書「アフォーダンス~新しい認知の理論」が新版になってからは自分は読んでおらず、個人的には前回の著書のエピローグに少し書いてあった言語への応用の部分がどうなっていたのか気になっていましたが…やはり難しい領域のようです。
どうやって言語の臨床に応用していくか、もちろんアフォーダンスという言葉でなくてもEcological epistemology近傍の概念で考えていける可能性はあると思っているのでいずれ形にしたいと再度決意を新たにしました。
神経心理学を普段の臨床で考えている自分の立場としては、古典的ではありますが入力と出力というシンプルな思考はやはり大事な概念だと思っています。臨床をしていると、患者さんの病態生理⇒が生み出す障害⇒その一部分である症状、に目が向きがちで、しかもそれは最終的に出力された形を評価していることが多いことに気付きます。
中枢神経系をシステムとして捉えたとき、そのシステムで修飾された結果が出力としての運動や発話になっているわけであって、それを引き出す入力側つまりsensory、perception、cognitionを考えること、それ以前に環境という不変項の中にある情報をどのようにピックアップしているのか、情報処理経路の順番に沿って考えていくという方法も、やはり大事なのだと思っています。
とかくすべての知識は現状、文字言語によって蓄積していることが多いです。つまり知覚されて認知された後に、修飾されて出力した文字ということ。恣意性の高いシンボルとして操作された結果であること。
そんな文字言語を使用してアフォーダンスが成書で説明されているので、あたかもアフォーダンスが意味する情報にもシンボルとしての音声言語や文字が付属されているような錯覚に陥るのでしょうか。意味⇔音韻⇔文字の関係をもう少しシンボル操作の部分とそうでない概念とで捉えないと、特に言語の臨床を本質的に考えていくことが難しいのだと思っています。
行為のいろいろな可能性の予見情報を、われわれは直接に知覚する。そのとき事物が与えてくれる行為可能性の予見情報がアフォーダンスである。
Gibsonの言葉。こんな言葉を思い出させる機会を作ってくれた、海老名スタッフのいしかわまゆこに感謝です。これからもしっかり支えていくので、臨床頑張ってね。
